「いのちを見つめる/美術とリプロダクション」に見る、いのちのパースペクティヴ

瀬島久美子 (インディペンデント・キュレーター)

 創発2010に参加したアーティストグループ<エレメント>企画による「いのちを見つめる」の開催は今年で2回目となる。昨年は「いのちを見つめる」というテーマについては、それほど驚きもせず、展覧会を拝見した。アリストテレスのいうように、アルケが始源であり原理を意味するとすれば、「いのちを見つめる」というのは作家にとって当然のことと考えていたからだが、今年「いのちを見つめる/美術とリプロダクション」というテーマを見た時には、昨年の私の展覧会に対する理解は安易すぎたか、といささか緊張した。
 展覧会のチラシには次のようなコメントが添えられていた。[子どもが「授かる」ものから「つくる」ものへと変化してきたという社会的状況、 そして人間の生産行為にはプロダクション(生産)とリプロダクション(再生産、生殖)があり、目的に沿って能動的に行われるプロダクションに対して、リプロダクションははっきりとした目的のないまま受動的に繰り返されるため、形態や質のみが継承され、外見は似ていても意味や内容に違いが出てくる。近代以降、造形表現、美術作品の制作に対して具体的な目的が与えられるようになったことに伴い、いのちと同様に、美術作品もまた「授かる」ものから「つくる」ものへと変質しているように思える。](一部省略)
 高草木さんが中心となって結成された<エレメント>のウェブページを読むと、いのちを考えることがエレメントの活動発足当時からのテーマであることがわかる。
 [いのちについて考え主張できる個々を目指し、ジャンルの壁を超えて表現活動をする][現代に向き合いながら、ゆっくり生きていこう][自分の影、日本という国の影を見つめよう]そして[ローカルとグローバルを超えるビジョンは何かという課題をアートの使命として模索する]という大きな目標が掲げられている。
 今回、「いのちを見つめる/美術とリプロダクション」に出品した作家達は、美術とリプロダクションというテーマに対して葛藤や苦悩とまではいかないまでも、テーマへのアプローチに苦労されたのではないかと思い、そのことについてたずねてみると、作家いずれもが「考えあぐねた結果、いままで通り自然体で思い通りに表現する」ところに行き着いたとのこと。ゆえに、作品にリプロダクションにまつわるメタファーやシンボルを意図的に潜ませているわけではなく、それぞれの作品に通底する「植物」も打ち合わせたわけではなく偶然とのことである。
 金田菜摘子のインスタレーション作品には羊毛と真綿が使われており、4種のインスタレーション作品が空間を自由に飛び回っている。種皮を割って飛び出す種のジャンピングを感じさせるもの、コンクリートの裂け目や塀の隙間から芽を出す根性大根や根性たんぽぽのような生命力を感じさせるもの、そして母親の試練に勝ち抜いた遺伝子のようなヴィヴィッドな動きを見せるもの。色彩も手わざによる質感や形態も空間への設置も、どれもが若いいのちによる躍動感に溢れている。会場に来た子供たちの多くがこの作品に反応したのは、若さが発するエネルギーのバイブレーションに共振したからではないだろうか。
 金田作品を静かに、かつ鋭いまなざしで見つめるかのように配置された作品が島村美紀の写真である。廃墟の写真で知られる島村美紀が植物という生きものに目を向けると、シャッターのひと押しで、現在からいのちの消失点までを一気に射抜いて、温室の中で成長し続ける植物のむせかえるような呼吸を凍結し、時間の透視図法として「今、ここ」の姿を写し出す。
 撮影にはグレースケールの緻密な表現に適したフィルムを用い、焼き付けの段階で特殊なフィルターを透す、という光のレイヤーによる重厚感が創出された作品は、否応なくいのちの重み、時間の厚みを感じさせる島村美紀独自の時空となっている。
 須部佐知子の作品からは、このグループで最年長作家であろうことが推測される。なぜなら、この作品が最も死の概念に近いと思えるからである。須部佐知子の制作は、知性や理論を生み出す能力の表象として、頭蓋骨をテーマにした作品に始まり、頭蓋骨を布で包み込むことを経て、頭蓋骨を想起させる白い花の写真をリプロダクトする絵画に至ったという。
 デジタル写真にピクセルの差異を平均化するフィルターをかけると形や明暗が単純化される。これを繰り返すことで写真という記録/記憶をゲシュタルト崩壊させながら、それをアナログで精密な手作業で写し取る作業は、加齢による身体や記憶や環境の変化を認識していく作業に似てはいないだろうか。崩壊へと向かうプロセスを真正面から捉えて熟成させていく行為は、人生を生きるという長い時間を経てはじめて可能になる。頭蓋骨を見つめてきた作家のキャリアなしには到達し得ない領域である。

Hiroko Takakusaki, 2011, ジュズダマ, 紙, 「百粒百様」

Hiroko Takakusaki, 2011, Mixed media on paper, 「Life-2010」

 高草木裕子作品で先ず目についたのが数珠玉を繋げた「百粒百様」である。その無彩色の姿から浮かび上がってきたイメージは雪舟作「秋冬山水図ー冬景図」。天に向かって屹立する崖、冬の厳しい大自然が鋭利な一本の線に凝縮されている。そして大自然に抱かれるように、里山のひっそりとしたいのちの営みがある。
 一粒一粒色の違う数珠玉を[繋げて束ねると違いは平均化された]と高草木裕子自身がいうように、数珠玉は床に置かれた和紙の青墨を吸い上げたようなグレースケールの線となり、背後の平面作品を巻き込んだ四次元目の空間を感じさせる。
 植物の根や種を素材として[創作行為に呼応する素材の反応を捉えながら]描き進められた平面作品は、雪舟の荒々しさとは違って、授かった種がはじけて花開き、枯れるまでのいのちの盛衰を見守るような、まろやかな母性に包まれている。

 4人の作家達はそれぞれに自然体でいのちのありようを表現しているがゆえに、作品は作家の「存在」そのものであり、生から死までのの間にそれぞれの立ち位置を占め、作家の力量による躍動感、力強さ、エントロピーの転成によって、現在からいのちの消失点までのパースペクティヴを生み出している。
 免疫学者の多田富雄は「男は現象、女は存在」と言った。ある時点でY染色体がたったひとつの遺伝子を働かせ、無理矢理軌道修正することがなければ、人間はすべて女になってしまう。ゆえに人間の自然体というのは女なのだとか。
 自然体が作り上げたこの展覧会は、持って回った論理を振り回して切り込むよりは、直感的にいのちの有りようを感じ取った人が楽しめたのではないかと思う。
 「いのちを見つめる」展では作品展示と共に、ギャラリーのあるプラザノースの来街者に呼びかけ、参加の機会をつくるワークショップやシンポジウムが用意されている。地域活性化は人の知恵と努力の結果であり、活性化の中心を構成するのはバカ者、若者、よそ者であるといわれる。(バカ者とは愚か者のことではなく、何があろうと一念を貫き通す人のこと。念のため)。
 フランス在住の美術家、平川滋子がこんなことを語っていた。「日本人に、私はアーティストですというと、趣味で食べていけるなんていい商売だね、と言われるのですが、フランス人にアーティストですというと、農業もアーティストも創る仕事に携わるのは大変だけど頑張ってね、と言ってくれます。このひと言で私はフランスで活動を続けることができるのです」と。日本人のアーティストに対する偏見や誤解は今もって雪舟の崖どころではないかもしれないが、偏見や誤解を超えて地域に根を張り、エレメントの目標であるローカルとグローバルを超えるビジョンに到達するためには、バカ者、若者、よそ者の力を結集するためのシンポジウムやワークショップも大事な要素だろうと思う。「いのちを見つめる」は来年も同じノースギャラリーで開催される予定とのこと。美術に興味のある人以外の来館者が見込まれる会場だけに、様々な切り口での展開が、目には見えなくとも人々の記憶に定着していくことを期待したい。

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